川俣正と鈴木志郎康、という組み合わせは私にとってどことなく不思議な組み合わせに思えた

http://www.catnet.ne.jp/srys/magekosi/003/jun/jun.html#jun28

多くの映像表現は「ストーリー的展開を持つもの」で、劇場のスクリーンに上映されたり、ビデオ化されたり、また放送局から発信されたり、それ自体完結したものは大体この部類に入る。そのメディアに入れて貰えなくても、それを目指すものも、その部類としよう。それとは違って、作品がそれ自体では完結しないもの、見た人がその作品に触れたことで、何かイメージ的なチャンスを得られるもの、そういう映像を作品と認めたところで、「開かれた映像表現」が成立するのではないか、という考え方ということなんですね。

そう、そうなんだよ。