仙台写真月間2006・一

 情報が遅いもので、山路さんの展覧を見落としてしまった。

 さて、花輪さんの展覧を見に行ったのだが、以前ほど良かった、と言う感じがしなかったのはなぜだろう。東北工業大学ギャラリーという空間に負けてしまったんじゃないかな、と邪推したのだけど。

 随分と下に配置されてあったプリントを、私は大げさに屈んで覗き込んだのだった。額装された小さなプリントは表面をつるつるしたガラスに覆われていて、そこにギャラリーの様子が映り込んでいた。私はプリントを見るたび、そこに屈み込む私の窮屈そうな姿を見る羽目になった。

 硝子の向こうに見える私とプリントは、小さかった。白くて厚い、品の良い台紙が額内の大きな空間を占めていた。前回の展覧で感じた、作者の表現したいという荒々しい欲求、作品から吹き抜けて来るような風、さわやかさが、額の中に閉じこめられ、虫ピンで留められてしまっているようにさえ感じられた。

 前回と比較すれば、プリントの完成度は高まっていた。それでもよく見れば高輝度域のトーンジャンプは隠しようがなかった。デジタルで撮影されたような色合いの作品もあり、ネガスキャンで作られたような色合いの作品もあり、全体に不統一感が感じられたのは、私の錯覚なのだろうか。同じサイズの写真が同じ額装を施されているのに、それらはどうにも同じ方向を向いていない様に感じられた。

 東北工業大学ギャラリーの二分割された構成は、私に混乱をもたらした。階上の作品は、どちらから見れば良かったのか?作品はどこで終わっていたのだろうか?受付の後ろに飾られていた二枚の大きな写真は、いったい作品の一部なのか?どうして近づいて見られないようになっているのか?
 わからなかった。

 そしてその、わからなかった、ということが悲しい展覧だった。