vermilion::text、フロア99、中央ホール(1)、ベータ

何者かに見られている様な気がして、旅人ははたと足を止めた。あの少女だろうか、それともあの囚人たちか。振り返るも、背後の扉は既に閉まっていた。回廊を見渡すが、象牙色の大理石、緋の絨毯と金刺繍、金で出来た絨毯を止める金具が目に付くばかり。旅人を見る者はおろか、動く影すらどこにもなかった。ドアの幾つも並ぶ円形の広く静謐なホール、その中心には二重螺旋の階段。どちらが上りでどちらが下りかなどは既に忘れてしまった。

先を急ぐ旅人たちにとっては99階を通り過ぎることは容易である。この階を無視して階段を上り/下り続ければこの階に足を踏み入れることなく上/下階にたどり着くことが可能だからだ。しかしながら、あてもなく塔内をさまよい続けてきたこの旅人にとって この階を探索せずに通り過ぎるということはどことなく不自然なことであって、まずは偶然に任せ開いた扉であの地獄劇を垣間見たのだった。

旅人はホールを見渡す。扉の数を数えるということはもうしない。初めてここにきたときに扉に傷をつけながらその数を数えたのだが、99個まで数えても行く手には真新しく傷の無い扉が並んでいるうえ、己が回ってきた方向を振り返ると 今しがたつけた傷のある扉以外、傷のある扉が見当たらなかったという出来事があったからだ。旅人の考えでは、これは扉がひとつであるか無限であるかのいずれかであった。あるいは、ひとつにして無限なのか。

旅人は誰も見ていないことをいいことに、緋絨毯に横になった。自分の呼吸の音と、心臓の音以外に音の無い世界。二重螺旋から、上下階の物音が聞こえてきてもいいはずなのに、幾つもある扉の向こうから人々の生活の音(いやもしかしたらうめき声)が聞こえてきてもいいはずなのに、そこは無音であった。自身の心臓の音を聞きながら、旅人はあることを思い出していた。

それは、ここよりもずっと下の階で邂逅した一人の老人のことであった。その老人はひどく巨大な湖を護っている人間で、自身を「観測者」と名乗った。
「この湖に、この塔の外からのある波長が訪れると、湖が光るのですよ」
星のきれいな夜にそう老人が言った瞬間に、湖の向こう端で蛍の光のようなものが一瞬だけまたたいた。
「あれです」
老人は暗夜にもかかわらず細かな記号を、使い込んで分厚くなったノートにきれいに書き付けながらそう言った。老人の話によると、その波長というのは目に見えず、耳に聞こえず、嗅ぐことも触れることも味わうことも、ともかく人間の生きたままの感覚ではどうやってもとらえきれないものなのだそうだ。この老人の家はこの湖で代々その波長の観測を続けてきたのだという。
「そんな波長を観測してどうするんですか」
旅人のぶしつけな質問に、老人は湖面をまどろむように眺めた。
「さてねえ…いろいろと役には建つんですよ、この観測は」
たとえば、と話してくれた例によると
「あなたみたいにこの塔の外から来た様な人は、気をつけてさえいればどこにいるかくらいわかるんですよ」
旅人はその言葉にうなづいた。それは目で確かめたり手で触れたりするよりもひどく間接的な手法だったけれども、誰かがどこかに存在していることを「視る」手法であることを感覚的に理解したからだった。

−−−ああ、私はきっと誰かに「視」られていたんだ。

旅人は先ほどの視線を理解し、自身を視ていた存在に無形の祈りを返した。そのもとに届かないかもしれないと、薄々感じてはいても。

http://d.hatena.ne.jp/nobody/20030426#1051352917
http://d.hatena.ne.jp/jouno/20030426#p1
への反応。