vermilion::text、フロア99、旅人が二番目に寄った世界

「お兄さん、お兄さん」
旅人が濁声で呼び止められたのは、海と砂漠との縁に建つ辺境都市の酒場であった。振り返った旅人の視界に、薄汚いなりをした腰の曲がった小男が映った。公衆浴場の盛んな町であったが、脂ぎった男の顔には虱か何かに食われたような赤い斑点がたくさん浮いていて、それが旅人に警戒感をもたらした。
「あんた詩人だろ、俺たちに何か歌ってくれよ」
押し黙ったまま応えない旅人に男はそう言った。背負っておいた竪琴を見つけられたらしい。旅人は眉根を寄せた。声をかけてきた男の後ろに目をやれば、酒場中の人間たちが期待や蔑み、そして哀れみの視線で自分を見ているのがわかった。
旅人の視線はそのまま宙を泳いだ。彼は旅人であって詩人ではなく、布に包んで持ち歩いている竪琴は彼らの望んでいる用い方には用いられないものであった。困惑した様子を見せる旅人に、周りは そらうたえ、どうした! とはやしたてはじめ、言葉を発することの無い異国の詩人を蔑み嘲笑った。
「ただでとはいわねえよ、気むずかし屋!」
そう言うと男は旅人にむかって棒きれのようなものを押し付けた。咄嗟にそれを受け取った旅人は、その重みと形に驚いた。それは石でできた、ほぼ等寸の人間の腕であった。大理石で作られたそれは、幾つもの星霜と吹き付ける砂漠の砂にさらされて指先などがところどころ欠け、もともとは美しく磨き上げられていたであろう表面は無残に荒れていた。しかし旅人の目は、それを見つけた男たちが表面の些細な欠損に気をとられて見出すことの出来なかった、その本来の優美な姿を見逃すことは無かった。この点において旅人は、旅人というよりはむしろ夢想家であり、その元の姿をすぐに思い浮かべることが出来た。それは美しくひきしまった女の腕であり、胸の前にまっすぐ伸びたそれは、彼女の乗った戦船が戦いに勝利し港に帰ってくるときに誇らしげに鳴らされる金の喇叭を掲げていたはずである。今 ここに無いもう片方の腕は、喇叭を優しく支えており、その両腕は風になびいてやわらかな曲線を描くローブとともに、そのたおやかな肢体へと、さらには彼女自身が据えられていた戦船の穂先へと繋がっていたはずである。そして、旅人はその女の肢体を何処かで見たことがあった。
「これを、どこで手に入れた」
旅人は短く尋ねた。
「どこもここも無いさ、砂漠を歩いていたら突き立っていやがったのさ、この薄気味悪い腕がよ」
男はなぜか毒づきながら言った。
「なるほど、それで納得が行く」
そういうと旅人は石の腕から視線を上げた。酒場の一同は旅人の瞳に、どこから吹き込んだのか高みの星の輝きが宿っているのを見て驚いた。
「古の世に一人の、海魔が豪族が居た」
旅人の声が酒場に響き渡った。

メザリオリと呼ばれ畏れられていたその海魔は、海底でずっとひとりで暮らしていた。
彼の眷属は世界の海中に散らばっていたが、彼が余りにも魁偉で醜いので誰一人として彼に近づきたがらなかった。
ある日、海魔は自身の上に碇を落とした愚かな船を沈めるために海面に赴いた。
そうして、そこで彼は恋をした。
人間どもの戦船の穂先に据えられていた、石造りの女神に。
両手に勝利の喇叭を掲げ、その背に鳥の羽根を生やした、軽やかな石の乙女に。
彼にその船を沈めることは出来なかった。彼は船の後を密かに従い、船が戦に出ればそれを沈めようとする敵をことごとく打ち滅ぼした。
人間たちは海魔をてなづける彫像として、その彫像と、彫像の彫刻家を高く賞賛した。
しかし、彫刻家は己の彫像が海魔をてなづけているわけではないことを知っていた。
魔族すら虜にする彫刻は、いつの日にか何らかの災いを引き起こさずにはいられないだろう。
彼はその彫像を最後に鑿を手にとらなくなり、それどころかその彫像を破壊しようとした。
海魔はその話を聞くと人間の姿に身をやつし、彫刻家にどうかそれだけはしないようにと懇願した。彼は彫像に仇名すものを除いて、人間に災いをもたらさないことを彫像にかけて誓った。
彫刻家は人間などよりもはるかに高貴で強大な魔の豪族がそのように懇願することに心を打たれ、彫像を破壊しないことを誓った。
しかし彫像の美しさと、それを据えた船の不敗神話はそれを所有する人間どうしの争いを産んだ。船はとうとう所有者と、無理にでも船を手に入れようとする派閥の抗争によって炎に包まれる。
月の光も届かぬ暗夜、炎に照らされながら彫像を陸に引き上げようとする所有者たちと、それを阻止しようとする派閥の人間の争いが続いた。
争いが終わり、夜が明けると人間は自分たちがすべてを失ったことに気がついた。彼らの手に折れ残った、女神の片腕を除いては。
彼らはその一本の腕を彫刻家のもとへと送り戻した。彼らには、片腕だけの女神など必要無かったのだ。
彫刻家は送られてきた腕を確かめると、海魔のもとへと送るように古馴染みの妖精に頼んだ。
妖精は森を伝い、海際を伝い、浅瀬を伝い、ようやく海の底へとたどり着いた。
そこには頭と両腕の欠けた彫像と、海魔の姿があった。
まるで雪の様な白い欠片の降り積もる海底で、優美に翼を広げてローブをはためかせたその彫像は、両腕と頭の欠けてなお、凛とした美しさをたたえていた。
妖精から包みを受け取った海魔は、その中身を確かめると満足げな表情を浮かべた。
彼は妖精に礼を施し、ひとつの宝玉を包んで彫刻家に渡すように頼んだ。
そうして妖精が去ると、海魔は彫像を再び眺めやった。
その面持ちは何かの思いによどんでいたが、しばらく…彼らの時間にしてしばらくの時をそうして過ごした後、彼はその腕を持って屋敷の裏、海底の森へ出かけた。
彼は、一人で、時間をかけて穴を掘った。
穴を掘りはじめた時には何かを思い悩んでいた顔も、穴が彼の思う通りの大きさになる頃にはすっかり晴れ晴れとしていた。
彼は掘った穴に腕を埋め、彫像の元へと戻った。
それから長い時間が過ぎ、海底が陸になり、陸が海底に没した。
海魔は干上がりつつある宮殿を捨て、別の世界へと移り住んだという。

「あなたの拾った腕は、海魔が埋めたその腕なのだよ」
時間が止まってしまったような酒場に、旅人の声が響いた。旅人はあの海魔と彫像の元を訪れたときの記憶を確かに思い出していた。
彼に石の腕を押し付けた腰の曲がった男が、彼に何か喋ろうとして努力していた。しかし、男は旅人に宿る不思議な風格に阻まれ何も言い出せず、が、とか な、などと言葉にならない声を先ほどから幾度か上げてはそこで終わっていた。その間、男のぎょろついた目が石の腕と、夢見る面持ちでその腕について語る旅人の間を何度も往復した。終に、男は声を絞り出した。
「なんでえ、こいつ出鱈目語りやがって!」
その言葉を機に、酒場は石化から解けたかのように動きを取り戻した。酒場にいた人間たちが、旅人の物語などどこにも無かったように、めいめいの所作に戻っていく。背の曲がった男も仲間のテーブルに戻っていき、そうして石の腕は旅人のもとに残された。
(この腕を元の持ち主の下に戻すために、Vermilionを下る旅人を探さなくてはならないかな)
旅人は、店主のおごりのエールに口をつけながらそう考えた。
この石の腕は程なくして旅人からいま一人の旅人に渡され、その旅人とともにVermilionを下ることになるのだが、それはまた別の話である。

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http://d.hatena.ne.jp/jouno/20030426#p1
http://d.hatena.ne.jp/mutronix/19700101#1047558720 の「LTP: 腕を送る男」