イメージについて
学校で白黒ラボで引き伸ばしをしていたときにふと気がついたのだけど、写真的なイメージには大きく分けて、その写真に写っている被写体すなわちイメージの対象になっているものに興味の本質がおかれているものと、被写体自体はどうでもよくイメージそのものに興味の本質があるものがある。
というのは、今日のラボで私の後ろにいた奴が妊婦のシリーズを延々とプリントしていたからであって、真っ白な背景に妊婦がポーズを取っているだけ、という写真が執拗に続くそのシリーズは、私にとっては写真家の「私は妊婦に興味があります!」という大声の叫びにしか聞こえなかったのである。
私は私のプリントをプリントしながら、そこに私自身の被写体への関心の欠如のようなものを認めた。私は一瞬、私が何故このイメージをプリントしているのだろうか、と自問したが、それは特に意味を持たなかった。私のイメージは私を一種の瞑想のような快感へと連れてゆく。私は、この写真はなぜそのような瞑想に私を誘うのか、この写真(白黒のコントラストの連続)が私にとって何故イメージとして成立しているのか、などということをとりとめもなく考えた。
すこし考えただけでは明確な答えのようなものは全く見えなかったが、その過程で確かになったことは、今の私はイメージというものに興味があり、被写体への興味だけで成り立っている写真には全く興味が持てない、ということであった。