24日のヴェルニサージの話

招待状を捨てたとか、行きたくないとか言っておきながら、24日は結局ヴェルニサージに出た。
24日に私がモデルをしてもらった友達の家に写真を持って行った際に、二人の共通の友人である私の同級生に偶然会ったのだが、その際、彼女に絶対にヴェルニサージに出ること、と念を押されてしまったのである。彼女には随分と世話になったこともあり、友人宅を出た私は仕方無しに会場へと向かった。
ヴェルニサージ会場は狭く、集まりすぎた人間の間に渦巻く、勝手でばらばらな欲望の奔流が行き場を失っていた。写真を見ているものは誰一人として無かった、と言えば嘘になるが、写真を見るために写真を見ている人間は少なかった。そこに居る人間達は、誰かと話したり、知識をひけらかしたり、つまりは自分のコミュニケーションの欲望を解消するために写真を見ているのであって、写真を見る事が彼らの第一義ではなかった。
人いきれにあてられた私は、開いたドアから中庭に出た。中庭にはサービスされるのを待っているアペリティフが並んでいた。アペリティフを準備しているサーバーたちと、次々と狭い室内に流れ込んで行く招待客を眺めつつしばらく中庭で座り込んでじっとしていると、客群が隣のホールに移動をはじめた。私は立ち上がってホールへと向かった。ホールは既に満員で、なんと招待客であるドミニクまでが立って様子を見ていた。はじめに校長がわけのわからない演説をし、次いでこのホールの所有者がお世辞の浮いた演説を始めた。この時点で私はそこで行われることに興味を失って外に出、はじめてそこに展示されている写真に目を向けた。
それらの大半は、私にとっては全く興味のもてない写真であった。個人のファンタズムをモデルに押し付けた、スタジオポートレイト。フォトショップのによる合成写真。違う、こんなものを見たいんじゃない。私は狭い会場を、吐き気をこらえながら、写真を見て回る。そうして、一つだけ、輝くようなオートポートレイトをみつけた。それは、作者の作者自身との率直な対面、捉えなおし、反発、受容の刻まれた標であった。そう、このような血で書かれた物語が読みたいのだ、私は。小手先のクリアティビテ、矮小なファンタズム、そんなものはどうでもいい。私はその写真の印象を心に仕舞っておくことにした。
ホールでの関係者のオナニーが終了し、ホールから観客がどろどろと吐き出されてきたので、私は再び中庭に戻った。中庭での細かな経緯は省略するが、白黒暗室の教師であるジョンとの会話が印象に残っているので、それを書き記しておくことにする。それは私の卒業制作の中の一枚についての言葉であった。
その写真は、蔦の絡んだ学校のラボの窓を写真に撮ったものだった。そのラボの窓には縦横に鉄格子がはまっているのだけど、私にはその鉄格子が日本の障子の枠のような規則性を持って立ち現れ、その先の風景を分割している点に興味を覚え、写真に撮っておいたのである。ジョンはその写真を指して、私はその窓をこれまで何百、何千回と無く開けてきたのだけれども、あの写真を見てからは私の中であの窓をそれまでとは同じ目で見ることができなくなった、私の中であの窓は日本の障子になってしまった、と私に言ったのである。ワインを一リットル以上飲んでいた私は、この言葉にいたく感動した。私が、ある現実を観察し、受容し、その受容の結果を写真にし、その写真を見た彼に、私の考えていた事が伝わったのである。
私にとっては写真はそういうものなのである。ささやかではあるけれども、目の前の現実との対面、理解、受容の経過に突き立てた、ひとつの道標なのである。