仙台写真月間2005・七

堀籠和世展を見た。
まず最初に目に付いたのはプリント。
基盤となる中間調のトーンは全般に明るい。明部はしっかり焼きこまずに光の中に溶かし込んである。シャドー部はよく見るとトーンが残っているのだけど、一見しただけでは潰れているように見える。展示会場の照明と相まって、非常にコントラストの高く、カリカリしたプリントに見えた。
これはおそらく、暗室でのチェックに用いた照明と展示会場の照明の違いから来ていると思う。展示会場は光源の小さな、強いタングステン光源であることから察するに、暗室でのチェックには光源の大きな、やや暗めの(一般家庭ならどこにでもありそうな)蛍光灯を用いた様な感じだ。

さて展覧の内容だが、私には人と緑の境界面の物語と読めた。人の世界に侵入してくる緑、緑の世界を切り拓いて住む場所を作る人間、そのせめぎ合いと共存が起こっている場所の「現場写真」である。
展覧を一通り見た後、物足りない、という感想を抱いた。写真が全て中景で構成されている。視点は主に立った人間の目の位置に固定され、構図に大きな変化が無い。モノクロ写真のため、目を惹く色が存在しない。
言ってしまえば、写真に絵画・平面表現的な遊びの感覚が無い。ここでは写真は記録という意味に従属させられている。私にとっては、それはストイックに過ぎる。見ていて気詰まりになってくる。いつも距離を置いて、突き放しているようだ。写真の中にすんなり入ってゆけない。