「もう、あんたなんか死んでいいよ」

「もう、あんたなんか死んでいいよ」
七夕が終わり人のまばらになったアーケード街を歩いていたその女は、私とすれ違いざまに、そう言った。彼女の言葉の矛先は私に向かってではなく、ブランド物の革鞄とともに彼女の掌に握られた、携帯電話の先にいる相手に向かっていたのだが、唐突に「死んでいい」などと言われた私はぎょっとして一瞬立ち止まった。気をとりなおして再び歩き出しつつその声を反芻するに、それはひどく平板で、そこからは激しい感情と言うものが抜け落ちていた、いや、そこには感情と言うものはおそらく、最初からなかった。女はまるで「そこの醤油をとって頂戴」と言うような気安さで「死んでいいよ」と発声していたのである。
「死んでいい」という言葉は一体どんな日本語であろう。そこには「死ね」という積極的な憎悪は存在しない。それはおそらく、あなたが死んでも私は何とも思わない、私は何も感知しない、という縁の切れ目を表す言葉であろう。かつては死んでもらっては困る存在であったものが、死んでもかまわない存在へと変化した、その存在があなたである、という意思表示であろう。そう考えると、私の耳元で「死んでいい」と言った女の言葉にさしたる感情がこもっていない、ということも理解できる。