カメラを持たないということ

学校から帰ってみると水が残り少なくなっていた。冷蔵庫が壊れてからというものの、私は買い置きをしなくなった。そうすると一日二日で何かが欠ける。私は日が暮れかけたあたりに水を買いに出た。
扉に鍵をかけ歩き出したところで私はカメラを忘れたことに気づいた。ここ数年、私は大抵の場合手の届く範囲にカメラを持っていて、どこへ行くにもカメラと一緒なのであった。カメラを取りに戻るために部屋のドアノブに手をかけたとき、カメラを持って行かなくてもいいか、という考えが私の頭の中をよぎった。どうせ水を買って来るだけだし。途中で写真が撮りたくなったらどうすればいいだろう、という考えも頭の片隅に浮かんだが結局、私はカメラを持たずに歩き出した。
夕暮れの空は美しかった。写真に撮りたいような空だったが、私はカメラを持っていなかった。しかし、私はそれが撮影できないことにむしろ清々しさを感じていた。私は写真を撮る必要がなかったのである。カメラを持っていたら恐らく、この空は綺麗だが空の写真など撮ってどうするのだろう?それは使い古されたイメージではないか?この空の写真を撮る必要、意味が一体どこにあるのだろうか?などと考え出しているに違いない。カメラを持たないことで、目の前にあった何かが取り払われたようだった。夕闇に染まり始めた空に飛行機が飛行機雲を引きながら飛んでゆく様を、電灯が瞬きながら点く様を、私は半ば驚きの目で眺めた。私の目は軽かった。
カメラを持つということは、世界を切取ることの可能なイメージへと否応なしに変質させることであり、撮影者にそのイメージの周りにある出来事へと考えをめぐらせることを強いる行為である。カメラを持つと私は、目の前にあるものをそのまま見る事ができず、目の前にある世界はどのようにイメージにされるべきなのかということを考えずにはいられない。カメラを持つということはなんと悲しいことなのだろう。この悲しさを乗り越える何かが、これからの写真を撮る者に求められているのだろうか。