vermilion::text、23階、ラプンツェルの猫

「あるところに、猫がいた。
 猫は、ある主人に飼われていた。
 猫はそれを愛する主人の手によって高い塔の中に幽閉されていた。
 主人は夜な夜な猫のもとを訪れてはその優美な仕草を愛でた。
 そのように飼われていたため、猫の毎日は単調だった。
 しかし、猫はその単調さを愛した。
 食事の時間、散歩の時間、午睡の時間、主人の訪れる時間、就寝の時間。
 一日の全ては猫の思ったとおりに運んだ。
 塔は決して大きくなかったが、そのおかげで猫はそのすみずみまで知る事ができた。
 猫は塔の中で歩き回れる限りを歩き、思うように片付けた。
 そんな生活を愛した猫だったが、稀にそのような毎日に疲れることがあった。
 そのような時、猫は塔の屋上に出た。
 塔の屋上は猫のお気に入りの場所で、そこからははてしのない空と塔の下の日常が遠くに垣間見えた。
 夕暮れ時に猫が塔の屋上から世界を眺め渡せば、下界の喧騒は遠く別世界のことのように聞こえ、天界の太陽の輝きも、月と星々の優しげな光も、遠く手の届かない光のように見えた。
 猫は、このまま生き続けて死ぬことを決められており、その姿はまるで生きながらにして塔から宙吊りになっているようなものだった。
 しかし、猫はその人生をそれほど悪く思っていなかった。
 猫は大それた野望も、希望も抱かなかったし、ある側面ではその宙吊りを愛してもいた。
 日常の全ての事柄が大きな逸脱もなく予定通りに過ぎ去ってゆく。
 猫は日常の小さな変化と逸脱を愛でながら日々をすごした。
 
 それは雨上がりの日だった。
 いつものように屋上から外界を見ていた猫は、そこに美しい姿を見出した。
 その姿は猫の眼下遠くに揺らめき、猫を魅惑した。
 それからというものの、猫は毎日のように屋上に登り、その姿を探した。
 それまでは外に出ることのなかった雨や雪の日も、猫は屋上に出るようになった。
 猫の不在に飼い主が怒鳴り散らそうとも、猫撫で声で擦り寄ってこようとも、猫は屋上に通うことを止めなかった。
 飼い主は美しい宝石や暖かい料理で猫の気を引き戻そうとした。
 しかし、それでも猫の興味は飼い主のほうへと向きなおる事は無かった。
 飼い主は下界へと使いをやり、猫を魅惑している存在を探させたが、それは見つからなかった。
 ある日、飼い主はとうとう猫をあきらめることにした。
 飼い主は猫に餌をやらなくなり、その元を訪れることも無くなった。
 猫は塔の上に一人、鍵をかけたまま取り残された。
 
 それからも、猫は屋上でただ眼下の姿を探し続けた。
 飼い主が猫を放棄してから数日がたった。
 雨上がりの午後、猫は眼下に再びあの姿を見出した。
 それは現のものなのか、はたして幻なのか、猫のいる塔の高みからはうかがい知る事は出来なかった。
 猫はしばらくそれを見守った後、屋上から身を投げた。
 石畳の地面は彼女を冷たく迎えた。
 冬の石畳の冷え切った冷たさと、己の流す血潮の暖かさの中で、猫は混濁した意識の中で死んでいった。」

「あら、私はその猫のようにはならないわ」

「…どうして?」

「私には、あなたという翼があるもの。」