花人中川幸夫の写真・ガラス・書 ―いのちのかたち― 展

http://www.pref.miyagi.jp/bijyutu/museum/
宮城県美術館で9月4日、明日まで。私は写真を見るつもりで8月30日に見に行った。
まとまってはいないが、簡単な感想。

展覧を見終わって「花の写真」の多様なあり方について考えた。いわゆる「華道」のお家芸的な花のあり方とは異なる花のあり方を求めた中川幸夫は、その写真作品のあり方においても、今の日本に出回っている伝統的な花の写真のあり方とはやや異なっている。異なってはいても、それらの写真は「そう撮られるべきであった」必然性を感じさせるものが多く、その表現の様態をとっていることが展覧から自然に感じられる。多様な表現のあり方とその社会的な許容について考えた。

彼が本当に楽しそうに作品を作っているのは‐写真を見た私が「ああ、作っている人が楽しんで作っている作品だな」と感じずにはいられなかったのは‐95年辺りの作品からである。それ以前の作品にはどこかしら切迫した緊張感のようなものが見られ、楽しんで作品を作っていると言うよりは、何かに追い立てられて物を作っている様な感じが感じられた。95年の時点で彼は70歳を超え、80に手が届こうと言う齢であったはずである。本当に作品を作ることを楽しめるようになるのに、彼は一体どれほどの時間を費やしたのであろう。

写真家の視点から気づいたことと言えば、70年代の初期作品と80年代後期以降の作品の間に、ライティング及び撮影技法に隔たりがあることを挙げられると思う。極端に言えば、別の人間が撮影しているように感じられる。

最後に、この展覧の周辺について。
私は一般扱いで入ったのだけど、特別展入場券900円はやや高くないだろうか。駅前から美術館まで出るのにバス代が片道で180円かかるので、交通費とあわせると1260円の出費である。これだけのお金を払って見に行こう、と思う一般の観覧者はどれだけ居るのだろうか。敷居をもう少し低くしないと人は集まらないと思う。美術館が法人化を迫られて採算重視の時代に入ったことは知っている。観覧者にこれだけのお金を払ってもらっても赤字だろう。しかし、この値段では「ちょっと興味あるんだけど」という人間は見に来ないのではないだろうか。
参考までに述べると、フランスの私の住んでいた街の美術館は(…と言うと彼我の文化風土の違い、ひとびとの美術への意識の差を指摘されるかもしれないけれども参考までに)毎月第一日曜日に美術館を無料で開放していた。これならば興味があるが行ったことがない、「ちょっと興味あるんだけど」という人もこの機会を利用して美術館を訪れやすいのではないだろうか。そして、展覧が本当に面白いものならば、以降お金を払って見に来てくれるのではないだろうか。違うかな。