昨日亡くなった親族の通夜に行ってきた。全くといっていいほど親交の無かった方だったので、私には何の感慨も沸くことは無かった。斎場にいた百名近い人間のうち、私の家族を除いて私が顔を知っているのは三名しか居なかった。
焼香の折、死人の顔を見た。それが異様に黄色いことと、ミイラのように萎びて全く精気のないさまに(当たり前だ、死んでいるのだから)私は少なからず驚いた。そこには、目に見える形で彼の内を経過した死の痕跡が現れていた。穏やかな死に顔だとか、そういう事は全く思わなかった。そこには侵食と破壊の痕がまざまざと刻まれていたのである。
式を締めくくる際に坊主が何かを喋った。その説話を聞いて、私は内心憤った。そこで私は、戦って死ぬ決意を固くした。坊主の説く、穏やかな眠り、緩慢な死に対し対抗しなければならないと思った。坊主は大事なところで、何もかもを釈迦に託してしまう。その思考(試行)停止は、はたして信仰と言うのだろうか。私はそこで踏みとどまって戦う。戦いたい。
人間は、戦いのうちに死ぬべきだ。