簡単なまとめ。

誰かから批判されたとき、その相手をあいつは馬鹿だ、何も分かっていない、などと侮り否定することは容易いです。私も、あの批評家の言葉をそういう方法で無力化することが出来たでしょう。でも、私はあの批評家の言葉を無力化せずに、一身に受けて傷ついた。なぜかというと、私は彼を理解したかったからです。彼の主張する方法論・美学を理解した上で、私なりのやり方を選択したかったからです。私の感覚と彼のやり方が近ければ、私は彼のやり方を取り入れて行動していたでしょう。でも、実際はそうではなかったわけです。
私が彼の存在とやり方を受容して、かつ自分のやり方を再び確立するには随分多くの時間がかかりました。私は彼のやり方をほとんど即座に受容しました。ただ、彼が私のやり方を全く受容しなかった、というよりは理解の姿勢すら見せなかった、ということに失望し多くの時間を費やしました。今は、その失望からも立ち直り、自分のやり方を再び確立する過程にあるようです。当面の問題はコメントにも書いたように、自分の写真を他人に見せる事、表現行為とは何なのか、という部分になりそうです(もちろん私にとっての意味です)。そして、その問題に対する疑念のようなものが、写真を撮るという行為にあたって常に頭に浮かんできて、シャッターを押す前に私をその考えに引き戻すのです。写真が撮れない、というのはそういうことなのです。