vermilion::text、71階7号室

「ええと、ここでいいのだったかなあ…」
そうつぶやきながら、私は旅行鞄を足元に置いた。四角い、縦に置けば私の腰まで届く旅行鞄は厚ぼったい革でできていて、いっぱいに詰まった中身と併せて私にはいささか重すぎた。
71階の「駅」で紹介された小さな宿屋は、ガンベッタ広場の7番。一泊いくらだっけ?お金は足りているのかしら。言葉は通じるのかな?ええいままよ、とドアの脇のボタンを押すと、じりんじりん、と古風なベルの音が二度鳴った。誰かが出てこないかと息をひそめて待っている私の後ろを、異国の言葉で何かを低く喋りながら人々が通りすぎてゆく。時刻はまだ夕方の5時なのだけれども、空には雲が低く垂れ込めていて、明るいとはお世辞にもいえなかった。
じりんじりん。
もう一度、私はベルを鳴らす。奥のほうでがたり、と音がして人が出てくる気配がした。ドアを開けたのは一人の恰幅のいいおばさんだった。私が言葉を発するよりも早く、おばさんは満面の笑みを浮かべながら淀みのないフランス語で言った。
「ああ、あなたがミシェルの言った日本人ね?」
ええと。
「私は駅のツーリストオフィスで部屋を予約してきた日本人なのですが」
フランス語でそこまで伝えたところで、おばさんは私をさえぎった
「ええ、だからミシェルよ、オフィスの担当官、ミシェルって云うのよ」
…そういえばそんな気もする。胸を張って言えることではないが、私は人名を覚えるのが苦手だ。ましてや二度と顔を付き合わせることのないツーリストオフィスの担当官の名前なんかいちいち覚えているわけがない。
「そうですか。ところで私は今晩ここに泊まる事が出来るんですよね?」
私がついこう確認してしまうほど、宿の確保は大仕事だった。地方の小さな町の、旅行者のあまりない季節に空いている宿を探すのがこれほど大変なこととは思わなかった。例のミシェルさんがあそこも満室だ、ここも満室だ、と各所に電話をかけまくった末に、この宿に予約がキャンセルされた部屋をひとつ見つけたのだった。
「ええ、でもね…」
でも?不吉な単語を耳にして、私は一瞬身構えた。
「あの予約、キャンセルされなかったのよ、ドイツ人の夫婦なんですけど」
ドイツ人の夫婦、と言うところを少し声をひそめて発声されたおばさんの言葉に、私は目前が真っ暗になる思いがした。
「ああ、でも心配しないで、ずっと使っていない部屋があるのよ、屋根裏なんですけどね。娘がずっと使っていたのだけど、娘は旅に出ちゃって。よければその部屋に一泊されていったら、と思って。」
長いフレーズだったので、一拍置いて意味が頭に入ってきた。
「なあんだ」
つい、日本語が出てしまう。変な顔をするおばさんに、あわててフランス語で付け足す、
「全く問題ありません、ぜひ宿泊させてください」
私の言葉に、おばさんの顔がぱっと明るくなる。
「じゃあ、すぐに部屋に通すわね、ついてきて」
私はおばさんの後について、重い鞄を抱えながら螺旋階段を登った。


はたして、それはこぢんまりとして清潔な屋根裏部屋であった。入り口は木のフローリングだったけど、部屋の中心には毛足の短く模様のついた暖色のカーペットがひかれており、それを取り囲むようにベッド、以前の部屋の持ち主の本の残った本棚、きれいに整頓された机と椅子が配されていた。机とは反対側の壁には、小さなクローゼットと姿見が置かれている。見上げれば、天井の高いところに二本の太い木の梁がむき出しに部屋を横断し、広場と中庭に向かってそれぞれ一枚づつ、人一人が通り抜けられそうな大きさの天窓があった。
「この部屋の問題はね」
おばさんが言った。
「洗面所も、シャワーも、トイレもないことなのよ」
私はうなづいた。ホテルの部屋として考えるとそれは問題なのだろうが、家族のための一部屋なのだとしたらそれは普通のことかもしれなかった。
「こんなところに泊まって頂いてねえ…その分、明日の朝ごはんはただにしますから」
おばさんの言葉に私は手を振って答えた、
「こういう経験なんてなかなかできるものじゃないですよ、私はとても満足しています。」
その言葉におばさんはどこか悲しげに微笑むと、
「そうね」
一言、そう言った。


いろいろと細かな伝達を終えたおばさんが部屋から出て行った後、ばさっ、私はベッドの上に横になった。上着もブーツも脱ぐのが面倒で、そのままである。ベッドは枕を中庭に面した天窓の下に据えてあり、横になるとちょうど夕焼けの空が窓枠の四角に切取られて美しかった。
…夕焼け?
私は跳ね起きた。おかしい。さっきまで垂れ込めた曇り空が私の気分までふさごうとしていたのに、きれいな羊雲の浮いた夕焼けですって?私は急いで重苦しい皮のブーツを脱ぎ捨て、ベッドの上に乗っかって天窓にかじりついた。
「なっ」
窓の外には、日本の住宅街を思わせる家並みが立ち並んでいた。二階建ての低い家々、屋根には瓦。スレート葺きのアパート、何の脈絡もなくぴょんと突き出たビル、張り巡らされた電線、立ち並ぶ電柱。どこからかピアノの音がかすかに聞こえてくる。視線を横に移動させると、視界の右手には大きな川が流れていて、その川沿いに細い自転車道が走っている。川のこちら側には学校の校舎とグラウンドのようなものがあり、さらに首を捻じ曲げればプールの端っこも見えた。左手のほう、手を伸ばせば届きそうな場所にマンションらしき建物が建っており…日本語で広告が貼り付けられている。私はそれを読み上げた。
「空室あります、ワン・ルーム(ステュディオ)、洋間、フローリング、リビングは京間で10畳相当…」
日本だ。ここは、日本だ。もしくは、日本に酷似した世界だ。これはどうしたことなのだろう。Vermilionを旅してからは奇妙な存在(電波を受信してそれを喋っちゃう人とか、二人組みの魔女だとか)に遭遇することには慣れていたけれども、こんなことは初めてだ。大体、世界そのものが変わっちゃっている。

「…ま、いっか」
ひとまずはお夕飯だ。おなかがすいたし。

階段を下って外に出ると既に陽は落ちかかっており、空は蒼暗い雲で埋め尽くされていた。ぽつぽつと点きだした街灯が、道行く人々を定期的に黄色く浮かび上がらせてはまた影に沈めていた。宿のおばさんに教えてもらったレストランはちょうど広場の向かいで、看板に鮭とそれを獲る熊がユーモラスに描かれたお店だった。私はメニューを頼み、珍しい鮭のオッソブッコ(osso bucco)と野菜スープ、桃のシャーベットでおなかをいっぱいにした後、宿に戻った。鍵を使って玄関を開け、右手にあるカウンターと左手にある食堂を通り過ぎ、洗い物の音が聞こえる右の廊下を過ぎた後にある螺旋階段を七階分登り、先ほどとは別の鍵で正面の扉を開き少しだけ階段を登ると、そこは私の部屋だった。私はかちん、とスイッチを上げて部屋の電気をつけた。そのまま広場に面した天窓に向かい、取っ手をぐるりと回して窓を開ける。そこは先ほどまで私が居た広場だった。目を凝らさずとも、先ほど私が食事を取ったレストランの熊がはっきり見えたし、その隣のTabacも、寂しげに立つ街灯たちも、青暗く曇った空も、何もかもがそのままだった。私はそっと窓を閉め、今度は中庭に面した天窓に向かった。ブーツを脱いで椅子に登り、天窓から顔を出す。そこでは、あの夕陽の世界がまだ続いていた。私は空を見上げる。茜色の空に、羊雲が数え切れないほど浮かんでいた。
なあんだ、これ…。
私は、少し放心してそれを見つめていた。この夕焼けは、不思議と懐かしい光景だった。それが日本(に近似した世界)だったからだろうか。理由は分からないけれど、この夕焼けにはどことなく私の心を感傷へと誘うものがあるようだった。天窓はやや高い位置にあり、私の身長ではそこから屋根に出ることは出来なかった。椅子の上で背伸びしながら窓のへりにつかまっているのも疲れたので、私は椅子を降り、紐を操作して天窓を閉めた。私の視線は部屋の中を泳ぐ。部屋の壁は小さな花柄をあしらった明るい壁紙で埋められており、ポスターの類は貼られていなかったが、ところどころに画鋲の跡が残っていた。机の上には恐らくおばさんが置いていったものだろう、便箋と封筒がひっそりと置かれていた。私は上着を脱ぐことをすっかり忘れていたことに気がついた。上着を脱ぎ、ベッドの上にほうり投げる。明日の着替えを鞄から出すのが億劫だった。あの重い鞄はベッドのそばに安置されたまま開けられていない。ベッドの上に腰掛け、そのままぽてりと横になる。ぼうっとした視界に、本棚に並ぶ本の背表紙が入ってきた。
「こころ 夏目漱石
あ。良く見てみると、本棚は日本語の本でいっぱいだった。「こころ」の右は、なんと「人間の土地」の日本語訳であった。フランス人なら原語で読めばいいのに。それともここの娘さんは日本語を勉強していたのだろうか。「人間の土地」の右には「マルテの手記」「マクベス」「オイディプス王」と続いた。なんだか統一性のない本棚だなあ…そんな感想を抱きながら、私は「人間の土地」を手にとった。
『ぼくら人間について、大地が、万巻の書より多くを教える。』
私は序文の最初の一文を、誰に聞かせるとでもなくつぶやいた。いったい何年前に読んだっきりだったろう。黄ばみかけた文庫のページには、鉛筆でところどころに線が引かれてあった。一番最初の線が引かれているところはここだ、
『それは、星かげのように、平野のそこここに、ともしびばかりが輝く暗夜だった。』
この子、なんでこんなところに線を引いたのかしら。次の一種感動的な文章にこの一説は欠かせないものだから、ついでに線を引いたのかな。実際、次の文章には少し強めの筆跡で線が引かれてある。でも、本当に感動的な文章は次の一説で、ここはその導入だからわざわざここにも線を引く必要はないんじゃなかろうか。少しひねたような気分で、私はその消えかかった柔らかな線を、爪でなぞった。私は「人間の土地」をベッドの上に放り出すと、立ち上がって旅行鞄の前ポケットを開け、そこから万年筆とインク壷を取り出す。机に向かい、オノトの尻をくるくると回し、金色のペン先をインク壷に突っ込んでぐいっと尻を引っ張る。ペン先をちょいちょい、と壷になすってから机の上の便箋を開いた。
「なっ」
思わず声を上げる。便箋にはジェットブラックのインクで、どこか見慣れた文字がびっしりと書かれてあったのだ。
「前略」
日本語だった。私は思わず声に出して読み始めた。
「お元気ですか。あなたが私のもとを旅立ってから早いものでもう一年がたとうとしています…」
手紙はまだずっと先へと続いていたが、私はそこで音読することをやめた。それは私が書いた手紙だった。書いたまま、書いている途中で書き続けることを放棄し、そのまましまっておいた手紙。それっきり忘れてしまい、旅立つときに日本に置いてきた、果たされぬ想い。私は忘れかけていたその内容を目で追いながら便箋をめくる。一枚…二枚…三枚目の半ばで手紙は止まっていた。三枚目は万年筆の文字のところどころが滲んでしまっていて、読むことが出来ない。そうだ。だってあの時、私は手紙を書こうとしては泣き出してしまい、結局続きを書くことが出来なかったのだから。はたと気がついて、私はベッドの上の「人間の土地」を手に取る。カバーのない、黄ばんだ文庫本の裏表紙をめくると、そこには最初に読了した日付と、紛れもない私の名前が鉛筆で書き込まれていた。
これは…いったいなんだというんだろう。
私は部屋を見渡す。部屋そのものに見覚えはなかった。ベッドも、机も椅子も、本棚もクローゼットも、すべてどことなく古びていて、かつて私が日本で使っていたものとは異なっていた。本棚の中身、机の上の便箋だけが、日本に置いてきた私のものだった。まさかと思いながらも、私はクローゼットを開ける。中には一枚の浴衣がきれいにたたまれて収まっていた。確かめてみるまでもなく、この浴衣はかつて私が着ていたものだった。私は浴衣を持ち上げる。着付けなんてもう忘れてしまったな…と思いながら身体に当ててみる。少し小さいけれども丈を直せば十分に着ることができるな、などと考えている時にふと、あの人とのはじめての逢瀬はこの浴衣だったなぁ…なんて思い出がふと脳裏によぎってきて、懐かしさに目頭が熱くなった。浴衣を持ったまま、中庭に面した天窓を開ける。そこはやっぱり、夕陽の世界のままだ。
そうだった。あの人と最後に歩いたのはこんな感じの夕陽の中だっけ。あそこの川沿いの自転車道を、二人で手をつないで。本もそう、ここにあるのは全部あの人から薦められたり借りたりして読んだ本で。大体「人間の土地」なんてあの人が間違えて二冊買っちゃったから、一冊私にくれたものだった。

あーあ、そうか。
ここは私の夢の中なんだ。明日になれば目覚ましが鳴って私は目覚めて、この部屋を出て行く。甘い甘い、追憶の夢の世界を出て行くんだ。